(一八)「書店員が好みの本に立てた手書きのポップがきっかけで」 筒井康隆の『巨船ベラス・レトラス』(文藝春秋)を読みました。 ここでは、私はこの作品の全体を紹介するというのでなく、ある部分についてのみしゃべってみようと思います。 登場人物である作家が文学とそれをめぐる状況について非常に妥協的 ── ということは現実的ということでもあるかもしれません ── な意見を述べるんですが、そこからの引用。
さて、「書店員が好みの本に立てた手書きのポップがきっかけでベストセラーになったことがまたきっかけになって書店員の選ぶ文学賞ができた、という現実もあります」── これの「書店員が好みの本に立てた手書きのポップがきっかけでベストセラーになったこと」の例のひとつ、そうして最初の大きい一歩であって、それなしに他の例が生まれなかったかもしれない例 ── で当のPOPを書いたのが私なんでした。だから、私はぎょっとするわけです。 で、また最近に知った新聞の記事(掲載から数か月たって読みました)でも私はぎょっとしていました。私の勤める書店の名前を伏字にして引きますが、
ああ、やはりそういう認識か、と思うわけです。 最近も、あるひとが書店の現在の苦境を思いやるという話のなかで、ミリオンセラーの必要性(それがあれば多くのひとが書店に足を運ぶことになる)に言及したときに、私がミリオンセラー(「みんな」が一斉に同じ本を読むこと)のばからしさ・否定をいい、自分が『白い犬とワルツを』に関わった書店員であることを告げると、その場にいた出版社の営業の女性ふたりが「ええっ」と声をあげましたっけ。そういう認識です。 断わっておきたいんですが、ここで私は自慢話をしているのじゃないんですよ。そうではなくて、私はそういう認識に自分が耐えなければならないといっているんです。「はじめに」でもいいましたが、私はある編集者に「あなたのやったことに功と罪がある」といわれたんですし、べつのひとには「それはあなたの十字架です」といわれもして、その通りだと思っているんです。「本屋大賞」の第一回での記念雑誌(本の雑誌社)では、たしか「次なる『白い犬とワルツを』がここから生まれることを願う」みたいなことが書かれてもいたと記憶しています。 またまた私自身の文章からおさらいしますか?
それと、もうひとつ。これは先の「そういう認識」を踏まえての文章 ── つまり、「そういう認識」をされているこの私がこのように発言することに意味があると自分で認識しての文章 ── で、ここから多くの書店員の現状を逆に推測してほしいんですが、
いかがですか? ついでにいえば、「今後三年間は日本人作家の新作を読まない」とか「「今年のベスト」なんていう視点は軽蔑してください」などが実行されれば、「本屋大賞」は成立しなくなります。 『巨船ベラス・レトラス』に戻ります。「一般的な読書力の低下の中では、書店員さんはプロの文学者ではないものの、あるいは批評家としてならセミプロと言えるのかもしれません」ということばが書店員を持ち上げているのかといえば、そうでもなくて、このあとには「一方では文学と無縁の人が書評をやらされたりする局面も増えているからです」がつづきます。この「文学と無縁の人」がどんなひとかといえば、おそらく、
── で、いわれているようなひとたちなんでしょう。そんなひとたちより書店員はまだましだということじゃないですか。実際そうなのかどうかわかりません。それに、あくまで「一般的な読書力の低下の中では」という限定を忘れちゃいけません。ともあれ、書店員だけを問題にすると、これも私は「はじめに」でいいました。
たぶん、私はこうした「書店員」という括りに疑問・不満を抱いているんです。ここでいわれている「書店員」に私は入らない、といいたいんですね。「書店員」なんてどうでもいいんですが、そういう「書店員」の企ての成功例として私が採りあげられることにいらだつんです。一緒にしないでくれ、と思っている。だから、自分で「一本の葱」(ドストエフスキー)とか『蜘蛛の糸』(芥川龍之介)とかいいだす羽目になる。そうして、おそらく私をそういう「書店員」とは違うと認識しているひとたちのなかにも、「書店員」として採りあげた方が一般受けするなどと考えて記事にする ── 悪用ですね ── ひとがあるでしょう。 かといって、私は自分が「本読みのプロ」だなんてこれっぽっちも考えていない。というか、「本読みのプロ」なんてものそれ自体を考えていないんですね。「なんだ、それは?」です。 ただ、こうは考えます。書店員の責任は重いはずです。彼らが店頭になにをどう並べるかによって、たしかに読者は影響を受けるからです。そうして、書店員の仕事は、ただ出版されたものを店頭に並べていればそれでいいというものではありません。『白い犬とワルツを』の騒ぎのなかで、「書店員にこういうことができるとは思わなかった。こういうことのできるものとしてこれまで書店員を考えたことがなかった」という意味の発言をした出版社のひともいましたけれど、彼がそれまでの考えをあらためるということは必要であったし、その意味では「書店員が発言する」という機会を得たことはよかったんです。しかし、結局のところ、当の書店員たちがこの機会の意味をまったく理解していなかった、彼らはせっかくの機会を誤用・濫用・乱用・悪用してしまった、と私は考えているんです。 書店員であって、しかも、本を読む力のある者たちのしなくてはならない・してはならないことを私は考えていたのであって、書店員であっても、本を読む力のない者たち ── 前者よりこちらの方に商業的な力があります ── のことはできるだけ考えないようにしていたと思います。しかし、当時から悲観的な想像はしていました。まあ、こうなると思っていましたよ。 本を読める書店員とそうでない書店員がいるんですよ。それをひと括りにして、とにかく「やる気」だの「善意」だのを ── 読者の味方というような意味合いで ── 強調するのはいい加減にしたらいいと思います。同様に、本を読める文芸評論家とそうでない文芸評論家がいるんです。本を読める作家とそうでない作家がいるんです。本を読める編集者とそうでない編集者がいるんです。 口を酸っぱくしていいますが、「作品に「よい・悪い」はある、それを自分の「好き・嫌い」とごっちゃにしてはいけない」というのが私の考えです。いまもてはやされている「書店員」はこの「ごっちゃ」を扇動する役を見事に果たしているんですね。
繰り返しますけれど、私は自慢話をしているのじゃありません。私はたしかに自分が本を読む力のある書店員だといっているんですが、これは自慢なんかではなくて、事実です。こういうと、ものすごい反発を買いそうですけれど、しかたがないでしょう。それとも、あなたは、自ら本を読む力のないことを宣言した者の自信なさげに薦める本を読もうと思うんですか? しかも、私はあなたに「背伸び」をしろといっているんです。「背伸び」して、これこれの本を読めと薦めるんです。その私が自分で本を読む力がないなどといってどうするんです? 筒井康隆についていえば、私は「はじめに」でこういう話をしました。
『旅のラゴス』を「それほどまでにふつうの書店に置いていないもの・そういうマイナーなもの」としてしか考えないでいる、そういう ── 大部数の出版物の ── 編集者の考えかた。私はつづけて、こうもいいました。
私が『白い犬とワルツを』でやったことは、その編集者のような考えかたを否定・打破する ── 「みんな」の読んでいない=「ベストセラー」でない、どこの書店にも並べてあるのでない本のなかにも「よい」ものがあることを指示する ── ことだったはずでした。つまりは「みんな」の否定、「てんでんばらばら」の推奨だったはずなんですが、それがどうなったかというと、とどのつまり、「みんな」が「みんな」の都合のよいようにこれを取り込んだわけです。「書店員」たちも「みんな」に屈服・迎合しました。自身が主張しているふりをして、実は「みんな」に媚びを売るのでしかないことをしている。商売です。売れればいいと思っている。「すり替え」を行なっている。 いま、こういう文言のPOPを書けば売れ残った在庫を一掃できるなんていうことを書いているハウツー本(これは、書店向けというのでなく、小売店一般を対象にしています)も出ていますけれど、もう笑うしかありません。その売れ残った商品が「よい」ものであって、売り手がたしかに「よい」と思っているのならいいんですよ。しかし、そうじゃないでしょう。そういう本のなかには『白い犬とワルツを』を例に引いているものもあるんです。 もう一度、外山恒一。
あるいは、ドストエフスキー。
私がここでやろうとしていることの主題のひとつが「ひれ伏すな」でもあるでしょう。「「みんな」と同じになるな」ということでもあります。 |